談志師匠 心よりご冥福をお祈りいたします
昨年末「死んでたまるか」という自伝エッセイの本の出版記念パーティの際、
談志さんが来て下さった。
お祭り好きで何かとパーティをするのが父の悪い癖だが、
その都度、都合さえつけば必ず顔を出してくれるのが談志さんであった。
父と談志さんの出会いは真鶴に住んでいた時からだというから
もう、40年以上の付き合いになる。
花と蛇のファンだとうことで
映画プロデューサーが連れてこられたと聞いている。
そのころ既に談志さんは超売れっ子落語家で、
当時東京から2時間以上かかる田舎町にわざわざ、
あなたのファンです、といってSM作家の家を
堂々と探訪する有名人はいなかったから父は相当驚いたらしい。
その時の様子を書いた昔のエッセイに
シャイでいて飾り気がなく、
粋な配慮にみちた談志さんを描いているものがあるので紹介したい。
その時、私が彼に受けた印象はもっと傍若無人な人物だと思っていたが、
家人の者に対する配慮も細やかで、
かといって必要以上に気を使うものではない。
夕飯はまだだろうと思って家内が食事の支度をしようとすると、
「すみませんが熱いオマンマに生卵を一つぶっかけたのに焼きノリが少々、
それにタクアンが何切れかあれば最高に結構なんで、
それ以外のものはどうぞお出しにならないで下さい」と、
自分の好物をペラペラ語って、家内にあれこれ要求することによって
接待する側の気持ちを楽にさせる。これが談志の配慮であった。
(中略)
彼は人の眼に時には傲岸不遜に見える時がある。
しかし、それは芸の上から来た匂いであって
威張って気に喰わないものにはとことん盾をついたりするが、
無邪気の上に成り立った彼の謙虚さは、彼を知る誰もが認める所だ。
(「米長邦雄の運と謎」「ただ遊べ帰らぬ道は誰も同じ」「色欲是空」等より)
ご長男の会見を拝見すると、昨年末の出版パーティに現れた談志さんは
声帯温存の手術をされてまだ間もなかったに違いない。
私どもにはそんなことは一言も言わず、
「年末は高座が入るからいけっかどうかわかんねえよ」と言われたのは
いつものようにシャイな談志さんのこちらへの気遣いだと思われた。
いつも我が家に来る時も談志さんは一人でひょっこりいらっしゃるのだが、
この時もやはり一人でふらりとお見えになった。
父は大分足が覚束ない様子であり、座りながら招待客と歓談していたが、
談志さんの顔を視界にとらえるとすっくと立ち上がり、
晴れやかに顔をほころばせながら両腕を広げて談志さんを迎え入れた。
談志さんの登場で場内は一気に活気づき、
抱き合う二人に一斉にフラッシュがたかれた。
耳元に手を寄せながら何やら二人で囁き合って、のけぞって笑っている。
サービス精神でカメラマンにおどけたポーズをとって見せる。
落語界の異端児、異端の文豪と呼ばれる両者が肩を組んでいる姿は
招待客に相当のインパクトがあったことだろう。
ともに70歳をとうに超え、病気をかかえた老体の身なのだが、
その様子をみていると、一丁目のガキ大将と三丁目のガキ大将が
何やら面白い悪巧みを考え出してうずうずしているような
若さと活力があった。
談志さんはスピーチで
「透析受けちゃったの?絶対受けない、受けるくらいなら死ぬって言ってたのにだらしない奴だね~」
と父にいって会場を沸かせ、
「不貞の季節」という作品を
こんなエロでドスケベな作品読んだことがない、傑作だ!と絶賛し、
辛い喉を酷使して小噺まで披露してくださった。
年齢は父のほうが5歳ほど上だが、
「立川鬼六」という名を頂戴しており、
談志師匠の弟子でもある。
40年来の友情と弟子への愛情を感じないではいられない。
後で父に聞いた。「耳元でなに楽しそうに話していたの?」
すると父はニッ顔を歪めて
「談志と俺とどっちが先にくたばるかな、って話してた」
と言ってケケケと笑った。
私はあきれて彼の常套句である「アホか」といっていなしたが
二人の粉飾のない爽やかな友情を感じるのである。
しかし、まさかこんなにも早く談志さんまでもが逝かれるとは
あの時私は少しも想像していなかった。
先に旅立った父はあのパーティの時と同じように
両腕を思いっきり広げてあの世で談志さんを迎え入れたことだろう。
談志さんがこっぱずかしそうに肩をすくめ、
頭を掻いて笑っている姿が目に浮かぶのだ。
私が子供のころ家に来て、共に話に花を咲かしていたメンバー、
谷幹一さんも、渥美さんも、関敬六さんも皆向こうに行ってしまった。
さみしくなるのはこちらの世界ばかりで、
にぎやかになる向こうの世界を羨ましくさえ思えてくるのだ。
団鬼六が生きていればきっと追悼文を寄せるのだろうがそれも今は叶わず、
最後に談志さんが登場する父のエッセイ中で
私が大好きな一節を紹介して追悼の意を表させていただければと思う。
あの世でもきっとこんな風に楽しく暮らしてくれていると思いたい。
もう一人、二歩で思い出すのは落語の立川談志だ。
私が横浜にいたときだから「将棋ジャーナル」誌を
私が主宰して発行したころだが、
私が自宅でアマ強豪と対局しているのを知ると
横浜で独演会などしていた談志は弟子達を引き連れて
帰りがけに観戦に来たものだ。
観戦に来てくれるのはいいのだが、
ただ黙って盤側に坐っておとなしく観戦しているという種の観戦者ではない。
野次を飛ばしたり、茶化したりしてうるさくてかなわない。
少しこちらが手を読むのに時間をかけると、
早く指しなよ、とか、考え過ぎだよ、とか、
いらいらしてせかすのには参った。
こちらは忙しいのだからそんなに呑気に考えてくれちゃ困る、
あと一分以内に指してくれ、とか言い出すのだから頭にきた。
あまりうるさいので別の将棋盤を出して
談志と弟子の一人と対局させてみると、指し方の速いこと、
まさに電光石化のスピードであったが、
ふと、横に並べた談志の盤面をのぞき見すると、
談志は禁手である二歩を打っている。
師匠、二歩を打っているよ、と私が注意すると、
弟子は口をとがらせた。
弟子が二歩を打った局面まで将棋駒を並べ替えようとすると談志は、
時間が惜しいじゃねえか、面倒くさいことするな、と怒り出した。
「お前もどっか適当な所で二歩を打ちな。それでチャラにしようじゃねえか」
と、無茶なことを言い出すのである。
「なんでい。二歩打ったことぐらいで文句たれるな。
志ん生なんか三歩打ったって平気な顔していたんだ」
と、妙なことを自慢するのだ。
(「鬼六流駒奇談 我、老いてなお快楽を求めん」『二歩物語』より)
談志師匠、ありがとうございました。
団鬼六事務所
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コメント
鬼六先生のご逝去以来、こちらのブログを拝見するのも間遠くなってしまっておりましたが、生前の談志師匠とのご交流興味深く読ませて頂きました。お二人共に大ファンでありながら、お二人の間にかくも深いご親交があったとは、不勉強にて存じませんでした。今年はこの世からこんなにカッコイイ男が2人もいなくなってしまい、心からがっかりしています。
投稿: マリア | 2011年12月28日 (水) 02時43分